いまを生きる 感想

少し文脈を読み間違えてしまえば危険な方向に転がりそうな危うさを秘めた実験的な作品になっていると思う。特に出演者のファン層を考えると。

キリスト教アメリカ学歴社会の文脈を体感していなければこの作品の真の面白さ或いは闇には近寄れないもどかしさと、理解できないまま済む安堵感があって怖い。

 

「詩の評価」について
「内容の重要性と内容の表現の的確さを縦軸・横軸にとった面積が大きいほうが詩としての評価が高い」というニュアンスの教科書の内容を一蹴する場面は痛快だった。散布図はあくまで分析ツールであり評価指標ではない。
しかし自分は本当に履き違えていないと言えるだろうか。

 

17ページからの序文のページを破る
キャメロンの芝居がとてもいい。有望な将来が射程圏内に入っている安定さを守りたい気持ちと年相応にはしゃぎたい男の子の矛盾した感情。一気に引き込まれたし、このシーン以降、一気に彼に自己投影してしまった(※感情移入ではない)

 

希望の光とは
ノックスはクリスに光を見ているし、あまりのまばゆさに影を知らない。チャールズは「自由」と「光」を混同して浮わついた。闇の中に閉じこもっていたトッドの心をこじ開けたのはキーティング先生だし、光で満たしたのはニールだろう。ミークスは失望をおそれ明るすぎる光を見ないようにしている。キャメロンは燃え盛らないかわりに安定した穏やかな光を守りたい人。
ニールは?芝居の中に光を見いだした、でも「父」という影が一体となって纏わりつく。

 

自分であるために「死」を選ぶ
ニールは「自由という牢獄」に囚われてしまった。自由を振りかざした彼は絶望に突き落とされる。でも彼は自由のために他を完全に切り捨てられるほどには大人ではなくまだ少年だった。台詞上にだけ出てくる母親だが、そこに闇がある気がしてならない。*1
その中で「自分」を失わないためにできることは死であった。
洞窟での、仔羊の清められた血の詩。自由を全うする人間を「正」とみなすような手触り。聖人へのオマージュなのか。
でも自由を全うして行った「自死」は救われるんだろうか。
キリスト教の文脈でどう解釈していいか気になっている。

校長やニールの父から見れば、キーティングは禁断の果実を渡したようなもの。でもそれは違う。
視野を広げることは大切だけど、自由(つまり権利)を行使するにはふさわしいタイミングがあるとキーティングはちゃんと学生たちに伝えていた。
ただ多感な学生諸君にとってキーティングの指導は刺激が強すぎて洗脳と紙一重だったと思う。スリルがあまりに効果的なトッピングになり、他者の自由が自分の自由を妨げることもある、という視点は伝わっていなかった。
観ている観客の一部も同様に扇動されてしまうのではないか、と感じてしまい私はこの作品が結構怖い。

 

誰もユダではない
残され署名をした5人は決して裏切ったわけではない。チャールズは浮わついた代償を支払った。残りの4人は自分の安定した生活を手放さない「自由」を行使した。
光には影がつきもので、どちらの光を選ぶかは、つまりどちらの影を選ぶか、とも言いかえられる。トッドとノックスとミークスは同じ影を選んだわけだ。

キャメロンは立ち上がらない。本当に大切なものだとしても自分の価値観と合わず手放すことは悪じゃない。それも「自由」だ。
一瞬、「立ち上がらないで」と必死に願う自分がいた。過去にとある友情を断ち切った私自身を許してほしいから、自己投影して「自由だよ」と言ってあげたいエゴである。

*1:出てこないニールの母の名が「マリア」だったら末恐ろしい、という話を友人とした。